Ⅰ
問1.
(省略)
問2.
(省略)
問3.
「時が解決してくれる」というのは、当の相手との関係になんの変化も生じない。自他の間で生じている齟齬が、自分が事態をいかに受け止めるかという問題に転位される。本来の「聴く」という行為は、言葉が不意にしたたり落ちるのをひたすら待つことである。言葉を迎えにゆくべきではない。語るということは、鬱ぎを整序し、それから距離をとるということなのだ。しかし、その苦しいことはすらすらと口にできるものではない。一方で、ひとはそれを聴かねばならない。苦しむひとは、語ることで鬱ぎとの関係性が変わる。溺れから脱し、そのプロセスをたどりきることが、苦しみについての語りの要だ。聴く人は、とぎれとぎれの語りのその遅さに耐えられないため、何らかの「物語」の形で言葉を挟んでしまう。これは、自分を鬱ぎから解き放つそのプロセスを省略してしまう行為であり、語る者がみずからの鬱ぎから距離をとるそのチャンスを横取りすることになるのだ。
(400字)
問4.
横取り
問5.
「待つ」のはてしなさのなかに、「他」があるとき訪れるというのは、「他」が訪れることを、「待つひと」が意識しないまでに意識化するという事態である。「待つ」ことは、確かにはてしなく、一体いつ、どこで自分が受け入れるべきものが現れるかはわからない。しかし、そうだからこそ、「待つひと」は、いつも「自分が待っている」という意識をもつことが必要だ。なぜなら、神出鬼没な「他」に対していつでも受け入れることができるようにしなければならないからだ。もちろん、これにははじめは忍耐が伴うだろう。次の瞬間に現れるかもしれないし、もしかすると数年後に現れるのかもしれない。しかし、「待つ」のであれば、常にそれを意識化する必要がある。そして、自然体で「待つ」ようになるまでにしなければならないだろう。むしろ、それがかつては通常であったと思われる。個々人の通信手段が発達するに従って、現代人から失われた能力ではないだろうか。本来、「待つ」というのは、いつでも「他」を受け入れる、そういった態勢を静かにとっている事態なのだ。したがって、待つことは、待たれる者へのはてしない従属でしかありえないということはない。むしろ積極的で、主体性をもった静かな行動である。待たれる人の行動や言葉に依存するのではなく、それを自然体で待つのである。待たずして待つ、ということもできるだろう。こういった精神性でいることが、待たれる人にとってもその鬱ぎから抜け出すよすがとなるのである。