和歌山県立医科大学/平成29年前期日程保健看護学部模範解答例

問1.本文中の下線部、「社会の間主観性に引きずられっぱなし」ということは、どういうことか説明しなさい。

まず、「社会の間主観性」とは、自分自身の主観性は、じつは人びとがつくった社会における主観性のなかで行っていることにすぎない、ということである。我々は、主観的なことをいっているように見えて、社会がつくりあげたものを、そのまま自分が語っているにすぎないことが多いのである。我々は、純粋な自分の主観的な考えと、社会によってつくられた主観性との二重の主観性があって、社会によってつくられた主観性の枠組みの中で物事を考えている。そして、「社会の間主観性に引きずられっぱなし」ということは、自分が言語世界や社会から離れて完全な孤独になり、自由に思考を巡らせてみたいと思っても、社会がつくりあげたものの中に自分自身がどっぷりと浸かっているわけだから、それはできないということだ。その中で、我々のすべてが社会の間主観性に動かされている、受け身的な存在になってしまうということである。

問2.本文の内容を踏まえた上で、孤独死に対するあなたの考えを述べなさい。

筆者は、「孤独力」という言葉を用いて、自己を支配しようとする社会から、意識的に離れなければならないと述べている。そもそも孤独とは、否定的なニュアンスを含む言葉ではなく、古来自己回復のための装置として捉えられており、意識的で主体的な行為としての「孤独」は決して否定的なものではない、と説く。孤独死についても、それ自体が寂しい死、人としてあるべきではない死と捉えるべきではないという考えである。

確かに、「孤独」そのものは、「孤立」とは違って、意識的であればその人の自己を回復し得るものであるだろう。社会の間主観性から逃れえない我々がとり得る、自己同一性を保つための手段かもしれない。しかし、とりわけ孤独死については、その論理はあてはまるだろうか。実際の問題として、筆者の言う「孤独力」を発揮して孤独のうちに死に至る人々がどれほど存在するのだろうか。「死」とはその人にとってまさに極限の状態であり、人間としての尊厳を全うできるか否かを左右する、最後の瞬間である。我々人間は、そのような状況下においても、筆者のいう「孤独力」を発揮できるほどに強い存在であろうか。いや、そうではないだろうと私は考える。だからこそ、我々は生きている間に友人を作り、家族を形成するのだ。我々はひとりで生まれるからこそ、そしてひとりで死ななければならないからこそ、友人や家族を通じた「愛」を求めるのではないか。そして、彼らに看取られながら、自分の人生を全うしたという最後の思いを得ながら死ぬのである。

このように、確かに、筆者の述べるように、孤独死のすべてがネガティブなものであるとは言い難い。しかしながら、「孤独力」をもって死ぬ人間はごくわずかであろう。孤独死はやはり、一般的な大多数の人間にとっては、これまでの人生で培ってきた「愛」を感じることなく死ぬ、いわば「孤立」に近いものであると言わざるを得ないと考える。