より豊かな人間関係を築くためには、私たちが他者と関わりあう中で、私たちの衝突は避けられないことを認識すべきだと考える。
私たちが他者に対して何らかの動作を加える際、それが筆者のいう「ふれる」になるか「さわる」になるかは動作主である自分自身が決めることではない。医師と患者の関係にあっては、その二者の関係性という文脈によって「ふれる」か「さわる」かが規定される。また、自身が相手に対して好意をもって働きかけたとしても、それは相手の自身に対する感情や関係性によって「悪意」と捉えられることもあるはずだ。自身と他者との関係性はその場の文脈によって規定されうるのだ。筆者がケアについて、接触面に「人間関係」が存在すると言及している。その「人間関係」とは、社会的かつ人間的なかかわりのことだと考える。
このように、相手との接触はお互いにとって善にも悪にもなりうるが、それは生まれながらにして有する感覚ではない。幼児同士が時に身体的な衝突をするように、生来、相手のことを考えて行動できるわけではない。このような衝突をなくし、お互いにいたわりあう構造を作るためには、成長していく過程での軋轢が必要なのではないか。今日、学校生活や課外の活動、また社会に出てからの生活においても、人同士の摩擦を限りなく減らす社会となっている。たとえば、公園では危険という理由により遊ぶのが禁止され、社会一般の活動でも「ハラスメント」という形で摩擦が批判される。確かに過度な摩擦は相手を傷つけてしまうが、過剰かつ人工的に摩擦を避ける社会では人間関係は豊かにならないと考える。人工的な環境下で摩擦を避けるよう暗に規定されていると、人間同士のふれあいは存在しなくなるからだ。こうした状況下では、自分の行為が相手にもたらす影響も考えることができない。多様な摩擦、衝突を経て、私たちはお互いを認識し、頼りあうことができる。それこそが豊かな人間関係につながるはずだ。