資料の文章では、「正しい言葉」とは何か、ということと、その外側には「活きている言葉」があるはずだ、ということが述べられている。これを踏まえ、私の考えを述べる。
「正しい言葉」とは何だろうか。現代社会の「機能化」された言葉という、「道具」として用いられるのみの言葉が、現代では「正しい」とみなされているように思える。なぜなら、資本主義社会では、意味が一義的に定まり、すぐに理解できる言葉が、直接利益につながりやすいという意味で適切であり、それはすなわち「正しい」ということになると思うからだ。しかし、豊かな意味を有している日本語が、機能としての役割しか果たさない状況でいいのだろうか。
ここで、私の経験を述べる。朝の子ども向け番組で、朝の挨拶を「おはようございます」ではない、砕けた表現にしているのを見たことがある。その言葉は瞬く間に流行語となった。「おはようございます」という言葉は、現代では朝の挨拶として、いわば機能化した言葉として用いられる。その挨拶の言葉に茶目っ気を入れ、その言葉は人気を博した。筆者が述べているように、機能として「正しい」とされる言葉に、「ひねりをかけて」子どもをはじめ、多くの人々に受容されたのだ。私は、言葉は使われてはじめて意味が出てくると考える。なぜなら、その言葉がいかに「正しい」としても、誰にも使われなければ、単なる死語となってしまうからだ。そして、死語ではない、活きている言葉こそが、人間の文化を形作ると考える。それは、高度な言語能力を獲得した人間だからこそ、今日の文明を享受できたと思うからだ。したがって、言葉は文化そのものの基盤と言ってもよいだろう。
よって、文化がよりよい方向へ向かうには、言葉が活き活きとし、新陳代謝を起こしていく必要がある。そのため、私たちは、現状の「正しい」という観念に囚われることなく新しい言葉を大胆に社会として受容していくべきだと考える。
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