1.要旨(400字以内)
我々は、生活の中で用いる言葉における些細な違いに注意を払っていない。しかし、言葉をどのように選び使うかは、かなり重要であり、選んだ言葉は話者のものの見方や対象物がどれほど価値をもつかに影響する。
言語の些細な違いや話法の形式は、課題に対する我々の考え方を規定する。特に母語は、空間や時間の観念を含む自分の周りの世界の多くの面に影響する。言語が生み出す思考の枠組みの違いは、二国間の大きな国際問題とさえなり得る。考え方が規定される例として、オーストラリアのアボリジニは、「右」や「左」といった表現に代えて「東」や「西」といった方向に関する言葉を使うことが挙げられる。
言語によって、我々が身の回りの事象をいかに受け取るかの枠組みを規定される例が、生活の中にも存在する。例えば、英語話者は、出来事における動作の主体に着目するし、日本語話者は、動作の受け手に着目する。これにより、物事の思い出し方も違ってくる。
(400字)
2.自分の考え(800字以内)
「言語は人間の認知や思考に影響を与えるか」という命題は、長年にわたり議論されてきた。代表的なものは、「サピア・ウォーフの仮説」である。これは、「言語は認知や思考に影響を与える」と主張するもので、「言語相対論」と呼ばれる。より極端に、「言語は認知や思考を規定する」という「言語決定論」と呼ばれる主張もある。この命題について、私の考えを述べる。
「色」という具体例を挙げて、言語相対論及びそれへの反論について考える。「色」は、数字のようにデジタルには決まらない。連続的にグラデーションをもって変化するものである。例えば、ある言語Aに、色を表す言葉が二つしかなく、一方の言語Bにはそれが百あったとする。すると、世界の見え方が違ってくる。それは言語によって認知が規定されているということなのだ。これが言語相対論的な考え方だ。
しかし、「色」には、次のような考え方もある。すなわち、「ある人々は色をある規則で区別する習慣があり、その習慣が、彼らの言語に反映される」という考え方だ。つまり、「言語が思考を規定する」のではなく、「思考が言語として表現される」ということだ。言語は、思考を表現するための手段である。手段が、それを使う主体を規定するとは考えにくい。また、色を表す言葉が二つしかないとしても、それは人間として、色を二種類しか知覚できないということではない。したがって、言語相対論は誤りである。これが言語相対論への反論だ。
私は、言語相対論が明らかに正しいという、科学的な決定的証拠を提示されない限りは、言語相対論は正しいとは言えないと考える。なぜならば、認識において、「手段がその主体を規定する」とするなら、それは言語が人間の知覚能力自体を規定するという結論につながるからだ。明らかに、人間の知覚能力が言語によって分かれるということはない。したがって、言語相対論は現時点では明らかに正しいとは言えないと考える。
(800字)