「わかる」ことについて、筆者は、私たちは生来他者と共感する強い能力を持っているという。それは脳内のミラーニューロンによるものだが、他者の運動や感覚をそのまま感じないのは皮膚がそれを隔てているだけである。身体や環境を横断する大きな心から、「小さな私」に限定されると説く。
確かに、ミラーニューロンの働きからすれば、「わかる」ということは他者と自分を横断するものと言える。しかし、本当にミラーニューロンの働きで「わかる」という営みを説明することができるのだろうか。たとえば、複数の第三者の会話を聞いて、彼らがどのようなことを考えているのかがわかることは日常生活でままあることである。これは単純に目で見た情報からだけではなく、自分自身の経験から、彼らはこう思うのではないか、と推測して、気持ちが「わかる」ということではないだろうか。すなわち、私たちは自分たちがもつ理性によって相手の気持ちを判断することは常日頃から行っているということなのである。推測や分析といった理性により「わかる」ことは否定できない事実である。人間は、ミラーニューロンといった生理学的な部分と、理性的な部分が両輪となって「わかる」ことが可能となるのではないだろうか。
したがって、私たちが広く共感する感覚を持っていることは否定しないが、その感覚には理性が大きな役割を果たしていると考える。理性が私たち人間同士の共感を導くのではないだろうか。